双極性naoの「てにをは」

双極性障害のnaoが伝える、ことばの力と闘病の記録。

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「年末はいつまで仕事ですか?」に戸惑う者からのメッセージ。

みずたまなおです。

こんにちは。

 

今回は、質問と偽装についてのお話です。

どうぞ最後までお付き合いくださいませ。

 

【目 次】

 

ある美容室にて

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「年末はいつまでお仕事ですか?」と尋ねられることは、この時期とても多い。

そのような質問を受けるたびに、私はいつもドキッとしてしまう。

けれど、そうした感情を表に出すことは決してなく、毎回ぎこちないつくり笑顔でやり過ごしている。

 

 

私が通う美容室には、古くからお世話になっている美容師さんがいて、その付き合いはかれこれ14年にもなる。

もう他の美容師さんに髪を切ってもらうことは考えられない。

それは、技術はもちろんだが、「相性」に依るところが大きいのかもしれない。

長年お世話になっていると、近況を話したり、お互いにプライベートなことを話したりするようになる。

自身のプライベートを話すことがあまり得意ではない私でも、気を遣わずに話せる数少ない人のひとりだ。

私はそれくらいその美容師さんのことを信頼しているし、何でも話せる、と認識している。

 

 

しかし、例え付き合いが長く、「何でも話せる」と思っていても、「年末はいつまで仕事か」という類いの質問をされると、かなり戸惑ってしまう

そして、息苦しさを感じながらも平静を装って、「働いている体」で返答する。

まだはっきりしていないということにしたり、公官庁の仕事納めにあたる「御用納」までということにしたり、年明けまで休めないということにしたりする。

 

 

美容師さんは、悪意をもって私に質問をしている訳では決してなく、それはむしろ当たり障りのない「定番」な質問なのだろう。

仮に、年明けまで休日がなかったとしても、そこから話を広げることは十分にできる

答えがどうあれ、この質問が会話の糸口になる公算は大きい。

この質問は当たり障りなく、働いている人になら対して広く使える「万能型」なのかもしれない。

 

 

多くの人に使えるこの「定番」の質問を受けるたびに、私は複雑な感情を抱く。

これまでの私の経験上、仕事をしているときは「年末はいつまで仕事か」と尋ねられても特に何も感じなかった。

けれど、いざ仕事をしていない(できない)という状況に身を置くと、晴天の空が突如曇天してしまったかのような感情に切り替わってしまう。

それはきっと、「働いていない」という負い目罪悪感があるからだろう。

 

 

その他にも、相手の「年末はいつまで仕事か」という質問に対して、正直に「今は働いていない」という返答をしたところで、会話が弾む見込みはほとんどないし、何よりも相手に気を遣わせてしまいかねない

また、質問に対する相手の狙いや、想定していた返答からは、おそらく大きく外れてしまうだろう。

そのため、それを外れないように敢えて仕事をしていることにしているのだ。

その方が会話も弾むし、関係性もきっと保たれる。

 

 

これを社交辞令と言うべきか、大人の対応というべきかわからないけれど、こうして「働いている自分」を演じることは、どこか息苦しく、嘘をついている自分自身に溜め息が出る。

 

 

99%と1%

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プライベートの場面で初対面の人と会話をする際でも、仕事の話になることがよくある。

既出の美容師さんと同じように、会話の糸口として「お仕事は?」と質問するのだ。

きっと、質問者は誰にとっても当たり障りのないものという認識で、悪意は微塵もないだろう。

繰り返しになるが、これは「万能型の質問」なのだ。

しかし、働いていないということで、どこか後ろめたく感じてしまう

「仕事は何か?」という万能型の質問に対して、「していない」と正直に答える。

「働いていない」と答えると、やはりどう考えても以降の会話は広がらないし、気まずくなってしまう。

それだけならまだよいが、憐れみの目を向けられたり蔑まれたりすることもある。

そうすれば、必然的に無難な返事をするしかない。

仕事をしている体を装うのだ。

 

 

万能型の質問に、型通りの返事をする。

しかし内心では、「プライベートなのに、なぜ仕事の話をしたがるのか」「なぜ仕事という人間性以外のところばかりを見ようとするのか」などと、作り笑顔の裏で唾を吐く。

万能型であるため、99%に通用する質問だ。

仕事の話題を取り上げる気持ちもよくわかる。

しかし、いくら万能型と言えど、必ず例外はある。

仕事の話題を振られて、あまりよい気持ちにならない残りの1%の存在もできれば知ってほしい。

 

 

円滑な会話のために装う

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経済的な安定は社会的信用に直結している。

裏を返せば、経済的に安定していなければ、社会的な信用を得るのは難しい

継続的な労働によって安定した収入を得、それが社会的信用に繋がっていく。

つまり「労働」は、社会的信用を得る活動でもあるのだ。

 

 

それだから余計に「働いていない」ということに後ろめたさ負い目のようなものを感じてしまう。

もちろん社会的信用が得られないことばかりが理由ではない。

多くの人々が働き、刻一刻と変化する世の中において、自分は何も貢献できていないというものもある。

いくら療養の身で、治療に専念することが自らの「仕事」だと思ってはいても、「働いていない」という事実に変わりはなく、そのことで「世間に申し訳ない」という気持ちになってしまう。

 

 

働いている人はみんながみんな健康という訳ではなく、心や身体の不調を抱えながら仕事をしている人も多いだろう。

常に自分のなかで上手くバランスをとり続けることは、そう簡単にできることではない。

 

 

例え心や身体が不調でも、働いているという事実は「健康そのもの」の人と同等で、「お仕事は?」と尋ねられても全く気に留めないかもしれない。

この場合、万能型の質問に対して99%の側なのだ。

 

 

一方、働いていない場合は1%に回る。

その場合、「働いていない」ということに後ろめたさ負い目を感じている。

しかしながら、相手に気まずい思いをさせないように、相手に失礼のないように、敢えて「仕事をしている体」を装っている状態なのだ。

そして、装っていること、つまり偽っていることに罪悪感を感じる

 

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「全く装わなくてもよい」ということが、「負」の感情を取り払ってくれることに繋がるとは思わない。

しかし、精神疾患を罹患していることによって腫れ物に触られるような、また、触れることがさもタブーになっているかのような、どこか窮屈もどかしい感情からは多少は解放されるような気がする。

そのためには、今なお残る精神疾患全体への誤解を解いていく必要がある。

 

 

全ての人から正しい理解を得ることは難しいが、それに限りなく近づけることはできるはずだ。

私にどのようなことができるのかわからないし、立派なことができるとも思わない。

 

 

「仕事」のような、ほとんどの人に使えて、一見当たり障りのないような万能型の質問にも必ず例外はある

こうした質問自体を避けることは難しいかもしれない。

ただ、傷つくことを恐れて仕事をしている体を装い、愛想笑いをしながら、円滑なコミュニケーションを取ろうとしている「1%」の人がいることを、せめて知っておいてほしい。

 

 

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「大掃除」を「ゆる大掃除」に換えて付加価値をつけてみる。

みずたまなおです。

こんにちは。

 

今回は、捨ててはならないものについてのお話です。

どうぞ最後までお付き合いくださいませ。

 

【目 次】

 

「年末」という言葉

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「師走」「年末」という言葉を聞くと、どこかソワソワして、忙しなく感じてしまうことはありませんか?

2017年も残り約2週間、少しずつ年越しの準備を始めている方も多いかもしれません。

正月用品などのような、新年を真新しい気持ちで迎えるためには欠かせないものの訴求も、CMや折り込み広告などで頻繁に目にするようになりました。

 

新しい年を迎えるために、何かを準備することも大事ですが、どうしても新年には持ち越したくないものを何とかすることも大事です。

具体的にいえば、それは、家のなかの普段なかなかできないところを掃除したり、日頃あまりメンテナンスできていない道具を手入れしたりするようなことです。

家のなかの掃除機がけや拭き掃除などは、普段できているけれど、忙しいあまり細かいところまでは手がつけられない、という方も多いでしょう。

重たい腰が持ち上がらない、という方もいるかもしれません。

 

年末年始に長期休暇が取れるため、その期間中を利用して大掃除をする、ということも十分考えられますが、「年末」という言葉が持つ雰囲気がどこか私たちをソワソワさせて、いてもたってもいられなくなって、「大掃除をしておかないと」と思い、行動に移すことも考えられます。

「今年のうちに何とかしたい」「来年には持ち越したくない」ということで重い腰が持ち上がる「年末」という言葉が持つイメージには、私たちが思っている以上の力を持っているのかもしれません。

 

大掃除から派生しやすいもの

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普段できないところを掃除していると、当然普段あまり目にしないものを見かけます。

例えば、クローゼット押入れの奥など。

日ごろ掃除のたびに、そこにある「もの」を出して掃除機がけをして、水拭きをして戻す、ということができていればいいけれど、なかなかそこまではできないものです。

 

クローゼットや押入れのものを引っ張り出してみると、「こんなものを持っていたのか」「あの頃はああだった、こうだった」というように、新しくもあり懐かしくもある世界に浸ってしまうことがあります

特に、思い出として保管している写真や手紙、旅先でのもののような、いつも見ないけれど、捨てるに捨てられないものを見始めると、時間を忘れてついつい見いってしまいます。

本来の目的である「掃除をする時間」が、いつしか「思い出に浸る時間」になってしまっているのです。

 

あまりに長時間に及ぶと、本来の目的を見失ってしまい、掃除自体が疎かになってしまうため注意が必要ですが、こうした時間を持つこともときには必要な気がします

 

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思い出は明日へのエネルギー

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「思い出に浸る」ということは、過去のことにしか目がいっていないという点では、あまり好意的に捉えない方もいるかもしれませんが、必ずしもそればかりではないような気がします。

確かに、いつまでも過去ばかりを見ていては「現在」「未来」が見えなくなってしまいます。

けれど、過去を振り返り、過去を知ることで原点回帰できたり、当時気づけなかったことに気づくこともあります

そして、日常的にはあまり見ないものであるがゆえ、いつの間にか時間を忘れてしまうのかもしれません。

 

過ぎたるは猶及ばざるが如し、何ごともほどほどに楽しむことが肝要です。

「どうしても捨てられないもの」には、私たちの人間性を構築する上で不可欠な要素があり、それがなければ「現在の自分」というものがない、と考えれば処分してしまうのは非常にもったいないことのように感じます。

言わずもがな写真や手紙などは、一度処分をしてしまうと、後日もう一度見ようと思っても、もう二度と見られません。

また、写真や手紙だけでなく、例え同じものが売られていたとしても、その当時の感情や「もの」に詰まった思い出は戻ってきません。

 

その「もの」以上の価値があり、思い出や思い入れなどの付加価値があると感じれば、必要なもの。

どんなに周りが「不要なもの」と言おうが、自分にとって価値のあるものだと感じられれば、それは十分必要なものなのです。

 

ときに過去を思い出すことで、前を向いて進もうとするエネルギーにもなるような気もします。

「掃除をする」という本来の目的を逸れてしまうことは、一見ムダな時間を過ごしているように見えますが、それは案外大切な時間のようにも思えます。

先に挙げた、大切なものは案外、副産物の中に隠れているのかもしれない。という記事のなかでも言及していますが、「主産物」がなければ「副産物」は生まれません。

つまり、「掃除をする」という行動がなければ「思い出に浸る」という行為には至らない、ということです。

これは、頻繁にみるものではないからこそ起こることなのかもしれません。

 

「捨てるに捨てられないもの」、特に「思い出に浸ってしまうもの」というものは、「捨てるに捨てられないもの」ではなく「捨ててはならないもの」なのです。

それはこの先、目にして手にするたびに、力を与えてくれるものなのだと思います。

どうしても前に進めず立ちすくんでしまったとき、少しばかり思い出に浸ってみることで、前を向く力を与えてくれ、そっと背中を押してくれるような気がします。

 

わざわざ引っ張り出さなくても、大掃除のときなどに偶然目にした「捨ててはならないもの」が、いざというときのあなたの支えになってくれる可能性もゼロではありません。

そう考えると、つい後回しにして、「作業」のように進めてしまいがちな大掃除からも、新たな気づきや発見があるかもしれません。

それは、知らず知らずのうちに、時間をかけて自分自身がゆっくりと成長していることを意味しているのかもしれません。

 

何かに気づき、発見する。

それだけで、自分にとって十分な価値があるものなのです。

効率的な大掃除もいいけれど、ときに寄り道したり一息ついてみたり、のんびりと進めていく大掃除も、時間に追われる現代人にとってはとても有意義で贅沢なもののように感じます。

 

 

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灰色の世界から一歩踏み出せば、そこは限りなく美しい世界。

みずたまなおです。

こんにちは。

 

今回は、6日間抑うつ状態だったときのお話です。

どうぞ最後までお付き合いくださいませ。

 

【目 次】

 

「書きたくない」という感情

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2017年12月9日に記事を更新してから、もう6日も経った。

6日間も記事を更新しなかったことは開設以来初めてだった。

開設からの3ヶ月はほぼ毎日更新をし続け、連続投稿日数も80日を超えていた。

「記事を書く」ということは、今や私の生活の一部であり、その時間や空間は大切なもののひとつとなっている。

そのため、記事を更新しないことで生じる不安感や、生活の一部が欠けてしまうことで起こる喪失感のようなものが私を襲ってきた。

 

 

「書きたいのに書けない」というのなら、書けるようになったら思いきり書けばいい。

「書こうとしているのに書けない」というのなら、考えがまとまるまで待てばいい。

しかし、今回私が感じたブログへの思いは、「書けない」という事実に変わりないけれど「書きたくない」というものだった。

「書く気がない」とは少し違う。

ライフワークのひとつである「ブログの記事を書く」ということへの興味が、あるとき突然失われてしまった。

「興味をなくした」というよりも、ブログのことすら考えられなかったのかもしれない。

ブログという楽しみを根こそぎさらわれたようだった。

 

 

かつて「無理して記事を書いたところで、よいものは生まれない」という記事を書いたけれど、「書きたくない」という感情下においては無理をする以前の問題で、記事を完成させるどころか、一文字も書くことができないし、そもそも机の前に辿り着くこともできなかった。

一旦記事を書き始めると、無理をすればそれなりの記事が書けるのかもしれない。

けれど、スタート地点にも立てないようでは記事が書けるはずもない。

1を2にすることも難しいが、0を1にすることはさらに難しい。

 

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原因とコントロール

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記事が書けなかった最大の理由は、体調の変化によるものだった。

抑うつ状態になると、気分が落ちてしまうだけでなく、日常生活でさえもままならないことがある。

少々の落ち込みであれば、自力での修復ができるもので、これは誰にでもあることだ。

これは、数時間経てば回復する。

例えば会社で上司に叱られたとき、落ち込まない人はいないだろう。

 

 

今回の私の場合は、そのような「原因」がなく落ちてしまった。

それも、かなり深いところまで。

原因がはっきりとわかれば、ある程度の対処はできるけれど、それがない分、心構えができず、より焦る。

知らぬ間に沼の底まで引きずり込まれて、何日も灰色の世界を見ていたのだ。

起き上がろうにも起き上がれない、意を決して起き上がるけれど、何をするにも視点が定まらず、いつも上の空。

身体は起きていても、頭は働かない。

パソコンでいえば、省エネの「スリープ状態」よりも一時的に電源を切る「休止状態」に近い。

 

 

このように、原因もなく気分が落ちてしまったのは随分久しぶりだ。

そのため、いくらか気が緩んでしまっていたのかもしれないし、もしかしたら季節的なものが原因なのかもしれない。

こうして、体調を突然崩してしまうことで「自分はまだまだ働ける状態ではない」ということを認識させられる。

よい方に捉えれば、私の体調がはっきりと目に見え、把握しやすいということだろう。

 

 

6日間の前半、つまり体調が悪くなり始めたころは、ただただ虚無感しかなかった。

うつ病などで強い抑うつ状態に陥ると、「死にたい」「消えたい」という感情が湧いてくるのはよく聞く話だ。

私もこれまで「死にたい」とは思わないまでも、「消えたい」「壊されたい」という訳のわからない感情を持つことがあった。

しかし、今回はそうしたものではなく「やめたい」「失踪したい」という感情だった。

具体的に何を、というものではなく、ただ漠然と何かに疲れ、何かを「やめたい」と思い、「いなくなりたい」「失踪したい」に繋がった。

けれど、いつも支え、助けてくれる家族のことが頭をよぎり熱いものが流れた。

こうした感情を持ったのは初めてのことだ。

記事を書いている今も、油断すると何かが込み上げてきそうだ。

 

 

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無機物と有機物

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床に伏していた期間の前半は「やめたい」と思うとともに、何もする気になれず、スマホの画面を見ることさえもできなかった。

その気持ちが日を追うごとに次第に和らぎ、「外に出てみようかな」と思うようになった。

けれど、外出はできなかった。

そして、「出てみよう」が「出よう」に変わり、「出たい」と思い今日に至る

昨日より今日、今日より明日というように気持ちがはっきりと変わった。

 

 

6日間、自宅から一歩も出られない日が続くと、当然家のなかの景色しか見えない。

窓から外の景色を眺めても、額縁のなかの世界を見ているようで、どこか無機質にしか感じられない。

「出たい」と思ったからか、それとも6日ぶりだったからかはわからない。

けれど、一旦外に出てみると、目に映るもの、鼻で耳で肌で感じるもの、私を取り囲む全てのものが心地よく感じる。

少し霞んだ青い空、朝の澄んだ冬の匂い、頬にあたる冷たい風。

電柱やマンションなどの無機質なものでさえも鮮やかに映る。

一歩、灰色の世界から踏み出せば、何百もの色彩が目に飛び込んでくる。

私たちが暮らすこの世の中が、こんなにも美しいとは。

 

 

自然を感じ、人々の生活を感じる。

「社会」のなかに私はいるのだ。

朝の乾いた空気を目一杯吸い込んで、ゆっくり吐き出してみる。

いま、強く思う。

私は生きているのだ、と。

 

 

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3600分の使い方。~「悪くない」を「悪くはない」に~

みずたまなおです。

こんにちは。

 

今回は、時間についてのお話です。

どうぞ最後までお付き合いくださいませ。

 

【目 次】

 

日記と体調の変化

 

客観的に自分を見ること

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私が精神疾患を患って以降、日々の体調の変化にとても敏感になった。

それは、日々の体調を記録するための日記を書いているからかもしれないが、自身の身体への意識がそれまでに比べて高くなっていることは確かなのだろう。

 

 

「日記」というと、一日にあったことを主観的に書くことが多い。

今日はどこどこへ行って何々をし、何を感じ何を考えたか。

私もこのようなことを書いてはいるけれど、それに終始することはあまりない。

 

 

精神疾患の中でもうつ病や双極性障害は「気分障害」と分類される。

そのため、ちょっとした気分の変化も日記に書き留めるようにしている。

今この時この瞬間に、自分がどのような感情を抱いているのか。

それを記録するには、一日を主観的に振り返ってみる必要がある。

 

 

しかし、主観で日記を書いているばかりでは視野がどんどん狭くなってしまう。

目の前の大きな鏡に映る「自分」というものと向き合い、を合わせ続けることは苦痛でしかない。

そして堪らずこちらから目を逸らせてしまう。

 

 

そのため、私は客観的に「自分」というものを見るよう努めている。

主観的に見ることが難しければ、客観的に見てみようと考えた。

「客観的に」とは、私自身を斜め上の方から見下ろしているような感覚で、少し距離を置いて、どこか他人事のように「自分」を見る、というものだ。

そうすれば、自身と緩く向き合うことができるようになる。

同じ「一日を振り返る」という作業でも、主観的に見るか客観的に見るかでその苦しさは大きく異なる。

精神面で考えれば、後者の方が圧倒的に負担が軽い。

 

体調の細分化

体調を記録する、と言っても「良い」「悪い」「どちらでもない」というような、よくある3択ではなく、もっと細かく分けられている。

これは、選択肢が必ずしも3つのなかに収まるものではなく、もっと細分化できるからだ。

 

 

同じ「悪い」というなかでも、「非常に悪い」「どちらかと言えば悪い」とでは意味が違う。

それだけではなく、他にも「悪くない」「悪くはない」というものもあって、それぞれ意味合いが異なる。

「悪くはない」は、「どちらでもない」とは言えないけれど、どちらかと言えば「悪い」、また「悪くない」は、「悪い」ではないけれど、どちらかと言えば「どちらでもない」に近いもの、という微妙なニュアンスの違いがある。

こうした感情を書き留めることは、2週間に一度の診察の場で主治医に体調を伝えるときに大変役に立っている。

 

 

最近の私の体調を言い表すと、「悪くはない」というのが妥当なところだろう。

悪いけれど、そこまで悪い訳ではない。

言い換えれば、低空飛行のような状態だ。

 

 

しかし、一貫して低空飛行を続けられているか、と言えば残念ながらそうではない。

日常のちょっとしたことが原因で、機体の腹を地面に擦り付けながら飛行してしまうことがある。

 

 

例えば、些細なことで家族などから注意を受けたとき。

こちらに完全に非があったとしても、注意を受けてしまえば、気分が落ちてしまう

決して理不尽なことを言われているわけではない。

 

 

本来なら、注意を受けたことに対して「これからは気を付けよう」とか「改めよう」と思うものだろう。

ところが、この「気分障害」といわれるものは、私の行動ではなく、私そのものに対して言われているように感じてしまう

つまり、「私」という存在を全否定されているかのように感じてしまうのだ。

頭では「そうではない」と思っていても、頭のまた別の部分では存在自体を否定されているような気がして、最悪の場合「消えたい」とか「壊されたい」「遠くへ行きたい」などと考えてしまう。

そのような自責の念に駆られても、不思議と「死にたい」とは思わない。

本当に厄介で、本当に面倒な病気だ。

 

病気との葛藤

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いまは生活リズムを整え、体調を整えることを最優先にして一日一日を過ごしているけれど、いざ一日の終わりに日記を書こうとすると、毎日同じようなことばかりを書いてしまっていることに気づく。

日々の積み重ねが大事で、体調は一朝一夕にはよくならないと思ってはいても、ずっと同じ内容の日記を、ただ単に書き写しているだけのような気がしてならない。

起床時間も就寝時間も同じ、日中の過ごし方もだいたい同じ、体調もほとんど同じ。

体調が安定している、と思えればいいのだが、低空飛行が続いている状態ゆえ、いい加減もう少しは浮上したいというのが正直なところだ。

 

 

一日を振り返って日記に書こうとするけれど、いつも書くことがなくて手が止まる。

「本当に何もしていないのか?」と言われれば、決してそうではない。

家のなかでできること、つまり家事などは行っている。

しかし、それ以上に「何もできていないのではないか」という気持ちの方が大きく、嫌気が差す。

 

 

「自分は何も生産活動をしていないではないか」「自分は家族のなかの、いや、社会のなかのお荷物でしかないのではないか」

そう考えてしまい、そのたびに歯がゆく、もどかしく、やりきれない。

そして、そんな感情に襲われるたびに、奥歯を力の限り噛み締めてやり過ごしている。

 

 

「できたことを認めませんか?」という記事を書いておきながら、本当に恥ずかしい。

 

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記事を書くことは自分自身への戒めでもあるけれど、一方で負の囁きが聞こえてくる。

「このような記事を書いておきながら、自分ができていないではないか!」「お前が人様に言えるような立場ではない!」「説得力のかけらもない!」「『手を差し伸べられるブログ』とか笑わすことを言うな!」

そんなことを考えると情けなく、地面に拳を叩きつけたくなるほど悔しくなる。

 

 

仕事などの、何らかの生産活動をしていれば、少なくとも自分の気持ちに刃物を突きつけるような真似はしないはずだ。

それは、かつて無職の期間を経て、仕事に就いたときに実感したためよくわかる。

仮に、短時間でも働くことができれば、働くことの達成感と、社会の一員として経済活動を行っている精神的充足感が得られるだろう。

働くのとそうでないのとでは、精神面において天と地ほどの違いがあるような気がする。

 

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3600分の使い方

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残念ながら、双極性障害というものに完治はない。

そのため、症状が軽減された状態が持続する「寛解」というものを目指す。

私は一体、いつになったら寛解の状態になるのだろうか。

これまでの記事で、割りと前向きなことを書いてきた「つもり」だけれど、私自身、本当はとてもネガティブで、弱いところしかない。

そして、不安で不安で仕方がない。

 

 

いまはただ、「悪くはない」ところで長期間停滞しているだけで、ひとつ上のステップに上がったという実感はもう何ヵ月もない。

それが気分障害というものなのかもしれないけれど、「もう少し良くなれば」という思いは常にある。

そのためには、いまの生活を少し変えていかなければならないのかもしれない。

 

 

「一日24時間」は、誰にでも平等にある。

そのなかでどのような時間の使い方をするのか。

 

 

1時間とまでは言わない。

5分10分でも構わない。

ほんの僅かでも、せめて何か自分の達成感充実感に繋がる時間があれば、精神面で少しはよい方向に傾くような気がする。

 

 

一日にある3600分のうちの何分かでいい。

いまのこの5分10分を有意義なものにするのか、それともただ無駄にしてしまうのか。

何に使おうと、全て自分次第だ。

 

 

いまの「悪くはない」体調なりに。

いつか「悪くない」体調にするために。

そうすれば、きっと「悪くない」毎日になるはずだ。

 

 

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上に伸びられないときにこそ、人は成長するのかもしれない。

みずたまなおです。

こんにちは。

 

今回は、種と根についてのお話です。

どうぞ最後までお付き合いくださいませ。

 

【目 次】

 

思い通りにならずイライラしていませんか? 

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何をするにしても、自分の思い通りにならないときは、誰でもイライラしてしまうものです。

仕事中や勉強中だけでなく、ときに私生活のなかでも苛立ちを感じてしまうこともあります。

「思い通りにならない!」といって、何でもかんでもイライラしてしまっては「自己中心的な人」と見られても仕方がありませんが、このような状況下に置かれてみれば、多かれ少なかれ苛立ちを感じてしまうことは、人として当然の感情なのかもしれません。

 

一概に「思い通りにならないこと」と言っても、その種類はさまざまです。

ほんの些細な間違いや失敗というものから、その後の人生を大きく左右するような大きなものまで、実に多様です。

学生を例に考えると、些細なものはテストや実験で思うような成果が上げられない場合、大きなものは就職活動でなかなか内定が得られないというような場合です。

 

そうした状況が続くと、ついイライラしてしまいがちですが、イライラすればするほど周りが見えなくなってしまい悪循環に陥ってしまいかねません。

しかしながら、うまくいかないことは、一見よくないことのように思ってしまうかもしれませんが、そればかりではないのかもしれません。

 

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イライラしたときの対処法をご紹介しています。 

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仕事と言葉

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私は現在、体調不良で休職しています。

「働きたい」と思ってはいても、まだまだ体調にムラがあり、体力が一日持たない日が続いています。

まもなく休職期間が終了してしまいますが、ドクターストップが出ていて、もしかすると期間内の復帰は難しいかもしれません。

 

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「働きたくても働けない」ということが、こんなにつらいとは…。 

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そうすると、必然的に「退職」という選択をするようになってしまいます。

退職後、すぐにすぐ再就職できるかどうかもわからない状況ですが、いずれは何らかの形で就職活動をするようになります。

 

思えば、現在の会社に就職するまでにも思うようにならないことは多くありました。

そもそも自分がやりたい仕事がわからない、自分にできそうな仕事の求人がない、履歴書や職務経歴書が書けない、応募しても面接当日に体調が悪くなって会場に行けない、そして何より精神疾患を告げたことで採用してしてもらえない。

就職活動をする上で、私の個人的な事情や会社の思惑まで、実に多くの障壁があり、そのたびにやりきれない感情を無理やり消化しようとしていました。

 

しかし、無理やり消化するのには無理がありました。

苛立ちが募り、周りが見えなくなってどんどん自分を追い込んでしまったのです。

 

一度負のスパイラルに陥ってしまうと、「負」の連鎖は止まらず、日を追うごとにそれが増幅していきました。

それでも、「経済的にも早く働き口を見つけなければ」というムチを自身に入れ続けました。

会社との面接以前に「自分自身との面接」をした、ということは、とても苦しい作業ではありましたが、同時にとてもよい経験となりました。

そして、多くの葛藤と障壁の末、現在の会社から内定を得たのです。

 

詩人・相田みつを

代表作『人間だもの』で知られる詩人・相田みつをさんの、ある詩に深く共感したものがあります。

それは、詩集『自分の花を』に収められている『雨の日には雨の中を 風の日には風の中を』という詩です。

 

既にご存知の方もいるかもしれません。

後半部分をご紹介します。

 

涙を流すときには

涙を流しながら

恥をさらしながら

口惜しいときには

「こんちくしょう!!」と

ひとり歯ぎしりを咬んでさ

黙って自分の道を歩き続けよう

愚痴や弁解なんて

いくら言ったッて

何の役にも立たないもの――

そしてその時にこそ

目に見えないいのちの根が

太く深く育つ時だから

何をやっても思うようにならない時

上にのびられない時に

根は育つんだから――

 

雨の日には雨の中を

風の日には風の中を――

 

この詩とは、就職活動で苦戦しているときに出会いました。

行き詰まって、どうすればいいのかわからず苛立っていた私にとって、とてもタイムリーで、私のなかでストンと落ちてきました。

 

特に、「何をやっても 思うようにならない時 上にのびられない時に 根は育つんだから――」という部分は、どこか自分自身に向けて語りかけてくれているような気がしました。

イライラした感情が全てなくなったわけではありませんが、穏やかな気持ちになれました。

そして、置かれている状況に否定的で、張りつめた私の感情のなかに、風穴を空けてくれたような気がしたのです。

 

「上にのびられない時」というのは、自分にとって、まさにいまなのかもしれない。

いま「根」が育っているところなのかもしれない。

そう考えると、肩の力が抜けて「そんなときもある」「これはこれで大切なとき」と考えられるようになりました。

 

ある産業カウンセラーさんの言葉

 相田みつをさんの詩と出会う以前、ハローワークの産業カウンセラーの方にとても印象的なことを言われました。

 

ハローワークには、求人を探したり応募したりする他に、産業カウンセラーの方に仕事全般のことを相談していました。

当時「どうすればいいのかわかりません」「どんな仕事が向いているのかわかりません」と、漠然としたことばかり言っていた私に、カウンセラーさんはこのような言葉をかけてくれたのです。

 

いま、花壇にいろんな種を植えているところ。

どんなにいっぱい水をやってもいけない。

どの種から芽が出てくるのか。

いま、あなたは花壇のそばでゆっくり眺めているところなのですよ。

 

その言葉を聞いたとき、深く納得し、同時に「これでいいのか」と感じました。

いま、私は「可能性の種」からが出るのを待っている段階なのか。

焦って、いくらたくさんの水をやったところで、芽は出てこない。

いまはただ、芽が出るのを待とう。

そう思えたのです。

 

相田みつをさんの詩と出会ったのは、カウンセラーさんからこの言葉をもらったあとのことでした。

相田みつをさんの言葉が、私のなかにストンと落ちたのは、きっとカウンセラーさんの言葉があったからかもしれません。

それぞれの「点」が繋がって、ひとつの「線」になった瞬間でした。

 

思うようにならないときは

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もし、あなたがいま取り組んでいることに対して、うまくいかなかったり、思っているようにならなかったりすることがあるかもしれません。

もしかすると、それは、大きなことかもしれません。

ただ目の前の状況だけを見ると、ついつい悲観的になったり、絶望的になったりすることもあるでしょう。

 

けれど、そんなときはただ苛立つだけでは何も変わりません

苛立ってしまうことは誰にでもあることです。

そこから何を得て、何を次に繋げるか。

その方が生産的で、建設的のような気がします。

 

うまくいかないときは、何をやってもうまくいかないもの。

たくさんの水をやって無理やり芽を出そうとしたり、茎を伸ばそうとしたりすれば「根腐れ」を起こしてしまいます。

 

うまくいかなければ、うまくいかないなりにできることが、きっとあるはずです。

上に、上にと伸ばすことだけが「成長」とは限りません。

うまくいかないときは、自身の「肥やし」になっている、と考えてみると、目の前の受け入れたくない現実も、すんなり受け入れられるかもしれません。

 強い根があってこそ、花を咲かせることができるのです。

 

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「死者1名」の裏側~自動車横転事故からみえるもの~

みずたまなおです。

こんにちは。

 

今回は、交通事故についてのお話です。

どうぞ最後までお付き合いくださいませ。

 

【目 次】

 

交通事故に遭ったことはありますか?

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あなたは、これまでに交通事故に遭ったことはありますか?

「遭ったことがない」という方が多ければよいのですが、残念ながら、みんながみんなそういうわけではないのだと思います。

 

私たちが「交通事故」と聞いて、まず連想するのは、自動車やバイク、自転車や歩行者などによるものかもしれません。

これらは「道路交通事故」と総称されます。

しかし、交通事故には、こうしたものばかりではありません。

 

船舶による事故は、海上で発生するものは「海難事故」河川で発生するものは「水難事故」に別けられます。

また、航空機による事故は「航空事故」鉄道による事故は「鉄道事故」と呼ばれています。(交通事故 - Wikipedia)

 

今回は、私たちに最も身近な「道路交通事故」についてのお話です。

 

事故発生件数

公益財団法人 交通事故総合分析センターの調査によると、2016年の1年間に全国で発生した道路交通事故は49万9201件、前年の2015年と比較すると7.0%減少しています。

しかし、減少していると言っても、約6秒に1件の頻度で発生しています。

また、死者数は前年より213人減少の3904人となっており、1993年以降、減少の一途を辿っています。(交通事故発生状況 - 交通事故総合分析センター)

 

このデータを見て、多いと感じるか少ないと感じるかは、個々人によって異なるものだと思いますが、私は「非常に多い」と感じます。

 

交通事故の種類

ひと言で「道路交通事故」といっても、さまざまな種類があります。

大きく別けると、「人的要因」「車両的要因」「環境的要因」の3つがあります。

人的要因は、前方不注意やブレーキ・ハンドル等の誤操作、病気等による健康状態不良などがあります。

車両的要因は整備不良や状態不良が、環境的要因は降雪・降水によるスリップ、勾配や動物の飛び出し等があります。

 

氷山の一角と横転事故

 

ヒヤリハットと交通事故

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私は自動車を運転するのですが、ときどき「危ない!」と感じる場面に遭遇します。

交通安全を心がけて、最大限の安全運転をしているにもかかわらず、そのようなことがあるのです。

こうした、実際には事故に至らなくても、事故の危険性があるもの、通称「ヒヤリハット」と呼ばれるものは、実際の交通事故件数の何倍も発生しています。

一説によると、1件の交通事故が発生するのは氷山の一角で、その水面下には30もの「ヒヤリハット」が隠れているとも言われています。

 

私が危ない場面に遭遇するのは、ほとんど自動車の運転中で、いつも他の自動車によってもたらされます。

具体的には、無理な割り込み方向指示器の不点灯、信号停止中に後続車が減速せずに迫ってくる、などです。

幸い、こうしたことで事故になるようなことはありませんでしたが、事故になっていてもおかしくないものもあり、そのたびに交通ルールの遵守と安全運転の重要性を再認識させられています。

 

ある年の8月12日

私はかつて、車対車の交通事故に遭ったことがあります。

相手の車の一時不停止によるものです。

 

そこは、信号のない夜の交差点、私は優先道路(「止まれ」標識のない道路)を走行中でした。

交差点に差し掛かったとき、私の右側から1台の車が「止まれ」の標識を無視して交差点に突っ込んできました。

そして、出会い頭で相手の車の正面私の車の運転席側が衝突してしまいました。

 

相手の車は時速40kmほど、私の車も同じくらいの速度でした。

相手の車がスピードを落とさず私の車に突っ込んできたということもあり、運転席に衝突されたあと、私はハンドルを取られて数メートル蛇行し、運転席側が下になる形で横転してしまいました。

横転する瞬間はスローモーションになったのを今でもよく記憶しています。

 

しばらく何も考えられませんでした。

そして、いま自分に一体何が起きているのかもわかりませんでした。

かつて経験したことがないほどの動悸と、身震いをしていました。

「身の毛もよだつ」とはこのことなのか、と思いました。

 

夜の静かな道路に響いた衝突音は、ドカンともグシャとも言えない形容しがたいものがあったと、あとから聞きました。

運転席側から横転してしまったため、運転席にいた私は、アスファルトに近いところにいました。

運転席側の窓ガラスはヒビが入った程度で割れてはいませんでしたが、シートベルトだけで運転席で浮いている状態でした。

アスファルトとの距離、わずか数センチ。

 

音を聞いて、近所の人が集まってきて助手席側のドアから私を救出してくれました。

横転した私の車を見ると、「本当に私の車なのか」と思ってしまうほどの状態でした。

車の前方から運転席を見ると、運転席の窓の目と鼻の先に「縁石」の角があって、しばらく経ち冷静になって考えてみると、窓に縁石が衝突して頭を強く打っていたら、もしかしたら私は生きていなかったのではないだろうか、と感じてしまい、強い恐怖感を覚えました。

 

外傷がなかったのが不幸中の幸いで、警察の聴取を受けたあと、近所の人が読んでくれた救急車で救急病院に搬送されました。

いろいろな検査の結果、特に異常なし、点滴などを受けて帰宅しました。

事故の発生は21時50分現場から100mほど先にある自宅に戻ったのは、日付が変わって1時30分、8月13日になっていました。

 

当時、私は小売業の会社に勤めていて、お盆期間中は全て出勤でした。

ましてお盆は繁忙期、通常は8時始業のところ、事故の翌日は5時始業

繁忙期に仕事を休むわけにもいかず、何事もなかったかのように仕事をしていたのです。

 

余談ですが、休憩時間中あちこちから「昨日、事故があったようだけど、知ってる?」などと聞かれましたが、そのたびに「そうなんですか?知らないですね」と言っていました。

 

交通事故がもたらすもの

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交通事故には、「人的要因」「車両的要因」「環境的要因」の3つがありますが、それによってさまざまなところで被害を受けます。

それは、人身事故だけではなく、物損事故も含まれます。

例え物損事故でも、ある人が所有するものを壊してしまえば、当然、ものを壊された人が被害者となってしまいます。

 

また、自動車だけでなくバイクや自転車なども、いつ加害者になってもおかしくありません。

乗り物に乗っている時点で、被害者にも加害者にもなってしまう可能性があるのです。

 

間接的被害者

交通事故だけに限ったことではありませんが、直接的な被害者間接的な被害者の2つがあるのだと感じます。

直接的被害者は、車やバイク、自転車、歩行者などが直接被害を受ける場合です。

一方で間接的被害者は、交通事故によって身体への被害は受けていないもの、それによって被害を被ってしまう場合です。

先ほど例に挙げたように、物損事故でものを壊してしまったとき、ものを壊された人が被害者となるのは、間接的被害者にあたります。

 

私は、この他にも間接的被害者は多くいるのだと考えています。

 

被害者家族

もし、交通事故によって被害者が亡くなってしまったとき、被害者の家族には大きな被害が及びます。

もちろん、大切な家族の命が奪われたことによる精神面での被害は図りしれません。

亡くなった方が労働者であれば、経済的にも大きな負担を強いられます。

親を交通事故で亡くしてしまった生徒が、経済的な理由で進学できなくなってしまうということもあるのです。

 

<交通遺児育英会>

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加害者家族

被害者家族だけでなく、交通事故によって加害者家族にとっても大きな負担が強いられます。

 

交通事故によって、相手の命を奪ってしまったとき、事故を起こした本人は加害者になっても、その家族は加害者ではありません

むしろ、被害者になってしまうのではないでしょうか。

例えば、親が加害者になってしまった場合、子どもは何も悪くないのに「加害者の子ども」というだけで、学校でいじめや嫌がらせを受けることもあるかもしれません。

また、精神的苦痛から転居を余儀なくされることも考えられます。

 

間接的被害者には、加害者家族も含まれているのです。

 

被害者は一人ではない

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飲酒運転や危険運転に関する報道を見るたびに、私は当時の横転事故のことを思い出します。

 

例え、報道では「死者1名」としか伝えられなくても、その裏側にいる被害者家族、加害者家族などの、多くの被害者がいるということを決して忘れてはいけません

たったひとつの交通事故、単なる人対人の交通事故ではないのです。

もしかしたら、その事故は偶然起きたものかもしれません。

しかし、1つの交通事故には何十倍もの「ヒヤリハット」があることを考えると、その事故は半ば必然だったのかもしれません。

 

交通事故というものをゼロにすることはできません。

いつ、どこで、どのような形で交通事故に遭ってしまうのかはわかりません。

けれど、それを減らそうと努力し、実際に減らすことはできるはず。

 

加害者になるのは自動車だけではありません。

バイクや自転車でさえも、加害者になりうるのです。

 

自分自身の身を守るためだけでなく、大切な人を守るためにも、いま一度、ご自身の交通ルールを見直してみませんか?

「大切な人が同乗している」と考えると、少し気が引き締まりませんか?

 

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「働きたくなくても働くこと」と「働きたくても働けないこと」

みずたまなおです。

こんにちは。

 

今回は、働くことについてのお話です。

どうぞ最後までお付き合いくださいませ。

 

【目 次】

 

発症して得るもの

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私が精神疾患を患って、ちょうど5年が過ぎた。

いま思い返すと、非常に中身の濃い5年間だった。

 

 

「病気」というと悪いことばかりのイメージがある。

確かに、悪いことの方が圧倒的に多いけれど、案外そうでもないこともある。

それは、病気になっていなかったら決して知り得ないこと、例えば大切な気づきや考え、そして何より日常のありがたみだ。

 

 

「病気」というものは、本当にいろいろなことを教えてくれる。

ときに、生活基盤を揺るがすこともある。

そのたびに目の前が真っ暗になり、右往左往してしまう。

けれど、そのたびに自分自身というものを見つめ直し、手探りでも前に進もうとする力は「いくらか」身に付いたように思う。

 

 

それが私にとっての最善の道なのかはわからないけれど、さまざまな葛藤のなかで選び、進んできた道に悔いはない。

 

履歴書の空白期間

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私は、新卒で入社した会社でうつ病を発症した。

その後、休職期間満了により退職、しばらくの療養・アルバイトで体調を安定させ、現在の会社に正社員として入社した。

 

 

面接時、私はクローズ就労(病名を隠して就職すること)をするはずだった。

しかし、結果的にオープン就労になっていた。

精神疾患に対する世間の理解は、まだまだ不十分で、「気持ちの問題」とか「甘え」などと言う人も、この社会にはいる。

クローズにしようと考えたのは、こうした考えを持つ人に傷つけられるような言葉を言われたり、同情、というか憐れみの目で見られたりしたくなかったからだ。

けれど、面接のときにオープンにしてしまった。

 

 

私の履歴書には、「空白期間」がある。

つまり、無職の期間があったということだ。

こうした空白期間があると、就職活動は圧倒的に不利になる。

そのため、多くの人はキャリアに傷がつくことを怖れている。

私もそのひとり。

しばらく空白だった期間を、資格取得に向けて勉強していた、というをでっち上げようとした。

しかし、その作戦もあっさり失敗し、あろうことかオープンにまでしてしまった。

 

 

そのことが、面接官の目にどのように映ったのかはわからないが、結果的に採用された。

いま思えば、あのとき正直に話していてよかったのだと思う。

もしあのとき、頑なにクローズにしていたら、面接官も不審に思い、採用もしてくれなかったのだろう。 

私が面接官の立場なら、おそらく採用しない。

 

 

やはり精神疾患のある人を雇うにはリスクがあって、その人がどんなに優秀で、どんなに華やかな経歴を持っていたとしても、採用するのは紙一重なところかもしれない。

そのため、大した経歴もない私のような人間を採用してくれたことに、とても感謝しているし、恩があるとも思っている。

やっとの思いで就職した会社だ。

 

 

しかし、藁をも掴む思いで就職しても所詮は藁、「再発」という形で私はすぐに沈んでしまった。

 

働けなくなって思うこと

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働けなくなって、もう何ヵ月も経つ。

私の場合、過労によって再発してしまったのだけれど、働けなくなったいま、純粋に思うことは「働きたい」というということだ。

 

 

いくら療養の身でも、収入がなければ「無職」に近い。

これまで働いていた時間がスコンとなくなってしまうため、ついいろいろなことを考えてしまう。

いまでこそないが、に触れてしまうようなことを考えてしまうこともあった。

何年か前も同じようなことを感じたが、「働いていない」「収入がない」ということで、こんなにも後ろめたく、こんなにも心が貧しくなってしまうのか、ということを思い知らされるとともに、ひどく落胆し、寂しくもあった。

 

 

「働くこと」「収入を得ること」によって、生活だけでなく、精神までも安定させる作用があるように感じる。

働きすぎによって、精神的なバランスが崩れてしまった私でも、ふとしたときに思うのは「働きたい」というものだ。

休職前、くる日もくる日も朝早くから夜遅くまで働いていた。

運転中の車のなかで、何度も意識が飛んでしまいそうになったこともあった。

「ゆっくり休みたい」と心から思っていた。

私は、働きたくなくても働いていたのだ。

 

 

それがいまはどうか。

あのころとは反対に、働きたくても働けない

あのとき倒れるまで働いていて「休みたい」と思っていたにもかかわらず、だ。

 

 

体力が一日もたない。

副作用によって引き起こされる乗り物酔いのような強烈な吐き気と、頭を少し動かしただけで視界が上下左右に揺れ、足もとがおぼつかなくなってしまう。

主治医から診断書が出ているためどうしようもないけれど、口をついて出てくるのはやはり「働きたいな…」というものだ。

働きたくても働けないことがこんなにもつらいことだとは思わなかった。

 

 

いまの会社にがあると言ったけれど、正直、休職期間内に戻れる可能性は極めて低い

少なくとも、休職前のようには働けない。

ともすれば自ずと次の仕事を探すことになる。

どのような仕事をするのか、どのような雇用形態にするのか。

しばらく非正規で仕事をするのなら、その先はどうするのか。

そもそも、雇ってくれるところはあるのか。

そんなことをいまから考えていても仕方がないのに、知らず知らずのうちに考え、苦しくなってしまう。

 

 

働いていないことに対して、世間の風当たりはきつく、会社は空白期間があることで冷たい目を向けてくる。

たった一度でも、社会のレールを外れてしまえば、そこに戻ることはとても難しい。

でも、それだけが全てではないはずだ。

 

 

「働いていない」ということからも、多くのことを学んできたことは確かで、そうでなければ決して気づくことのできなかったこともある。

働けなくなった、いま思う。

「やっぱり働きたい」と。

 

 

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暗闇に浮かぶ、ほのかな灯りに思うこと。~初冬の無人駅にて~

みずたまなおです。

こんにちは。

 

今回は、灯りについてのお話です。

どうぞ最後までお付き合いくださいませ。

 

【目 次】

 

私の高校時代

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これは、私が高校2年生の冬のお話です。

 

私の通っていた高校は、自宅から約1時間のところにありました。

自宅から自転車で15分電車で1駅乗り換えて5駅再び自転車で15分

私は地方都市に住んでいたため、電車は大都市のように1時間に何本も来ませんでした。

そのため、時間帯によっては電車の乗り換えで30分近く待つこともあり、通学に1時間以上かかってしまうこともありました。

 

私が通う高校よりも近いところにも、たくさんの高校がありました。

しかし、さまざまな理由から、あえて自ら進んでその高校に通うことになったのです。

  

自分で選んだことではありますが、こうした生活は本当にしんどかったです。

当時は今よりもずっと若かったし、体力もありました。

もし、「明日からやれ」と言われても「いやいやいや、無理無理無理」と全力で断ることでしょう。

 

乗越しの衝撃

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こうした無茶な生活をしていると、必ずどこかでができます。

私は電車のなかで居眠りをしてしまい、本来降りる駅で降りられない「乗越し」を頻繁にしてしまっていました。

頻度は2週間に1回程度、学校からの帰りがほとんどでした。

 

学校での一日を終え、疲れた状態で電車に乗り、席に座ります。

座ったら最後、高確率で眠ります。

でもなぜか、いつも降りる駅が近づくころに起きることができました。

ところが、携帯電話でアラームを設定していても、うまくいかないときもありました。

乗越してしまうのです。

 

降りる駅のひとつ手前の駅で目を覚まし、安心しきってまぶたを閉じると気づいたときには時すでに遅し。

乗越しを経験したことがある方ならお分かりかと思いますが、気づいたときに見慣れない景色だったときのショックの大きさといったらもう…。

 

何の自慢にもなりませんが、私は一日に2回(行きと帰り)乗越したことがあります。

 

それはさておき、乗越してしまうのはだいたい1駅なのですが、ときに2駅ということもありました。

私の住む街は、大都市のように、電車の本数が多くはありません。

1駅といってもその距離は5km以上もあり、とても歩けるような距離ではありません。

仕方なく乗越し運賃を払って、電車が来るまで反対側のホームで待つことになるのですが、それはそれは心細くて。

ただでさえ不安なのに、見慣れない夜の景色がそれを増幅させていきました。

 

10駅乗越し

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高校2年生の初冬のこと。

私は学校を出て、いつものように電車に乗りました。

乾燥した冷たい空気とは対称的に、電車のなかは暖房がよく効いていて、寒さで強ばった私の顔がすぐに緩みました。

 

電車内は空いていたため、座席に座り、イヤホンで音楽を聴いていました。

暖房の心地よさから、乗車してすぐに眠りに落ちました。

一週間の疲れもピークに差し掛かる木曜日、よほど疲れていたのだと思います。

私は吸い込まれるように眠っていました。

 

ハッとして目が覚めました。

「空いている」といっても、ひと車両には10人以上はいたはずの乗客の姿はなく、そこには私ただひとりでした。

電車は動いているようだ、けれど車窓の景色は真っ暗で何も変わらない。

「ここは、一体どこだろう」と一気に不安に駆られました。

 

車内のアナウンスが次の駅名を伝えました。

その駅名を聞いても、私は全くピンと来ません。

ただ、「乗越してしまった」ということだけは理解できました。

「とにかく次の駅で降りよう」そう思い、到着した駅のホームに降り立ちました。

 

乗っていた電車が次の駅に向かって去っていくと、そこにいるのは私だけでした。

ホームには蛍光灯すらありませんでした。

「ここはいったいどこなのだろう」と思いながら、携帯電話の明かりを頼りに、ホームにある駅名板を見に行きました。

それを照らすと、駅名がわかりました。

が、その駅名板には、蹴られたような跡と、硬いもので打ち付けられたような跡がたくさんあり、もはやボコボコ

明かりに照らされたそれを見ただけで、一瞬で背筋が凍りました。

 

駅舎の方に向かうと明かりがあるのがわかりました。

駅舎には消えかかってチカチカしている蛍光灯が1本しかありませんでした。

自販機があるものの、蛍光灯は消え、どうやって入ったのか、ディスプレイの内側に大きな蛾の死骸がありました。

チカチカ照らされると余計不気味さが増します。

 

反対方向の電車が来るまで時間があったので、駅を出てみることにしました。

「待ち合いは気味が悪いから、駅の周りで時間を潰そう」そう思い、駅舎を出ると、すぐ目の前を高速で車が走っていました。

そこは片側1車線の国道の幹線道路。

左右からくる車のヘッドライト以外に明かりはありません。

ときどき、ぱったりと車が通らなくなると、そこには暗闇と静寂と私だけ

 

「仕方ないから待ち合いで待とう」と、くるりと向きを変えようと左を見ると、高さ150cmくらいの黒い物体がありました。

一瞬腰が引けましたが、よくよく見ると、丸型ポストで色は黒ではなく赤でした。

 

しばらくすると、遠くの方から電車のヘッドライトが見えてきました。

徐々にその光は大きくなるにつれ、私の不安は安心へと変わっていきました。

それはまるで、真冬の夜の帰り道に自宅の灯りが、私の帰宅を今や遅しと待ってくれているかのように。

 

その安心は、ほんのりと私に温もりを与えてくれました。

駅に到着した電車に乗り込みましたが、そのときに乗車したのは私だけでした。

 

乗車してから、車内に掲示してある路線図でその駅名を探しました。

すると、私が本来降りる駅から10駅も離れていることがわかりました

そしてまた10駅、時間にして約50分かけて目的の駅まで向かうのでした。

 

ほのかな灯りに思うこと

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いま思うと、「それだけ疲れていたんだな」としみじみ感じるのですが、「10駅って相当乗り越したんだな」と思う自分もいます。

 

ただ、よく考えてみると、その当時の私は、「進路」について悩んでいた時期でもありました。

いま、自分がどこにいるのか、そしてこれからどこへ行こうとしているのか。

漆黒の闇のなかで、「ああでもない」「こうでもない」と、いつも見えない道を探していました。

 

悩み、考えることは大事なこと。

それが、自分にとって本当に行きたい道なのかはわからない。

もしかしたら違うかもしれない。

けれど、悩み考えることに意味がある。

それが大きな力になる。

 

遠くからほのかに灯りが見える。

自分が選んだ道に、間違いはない。

 

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ある無人駅で、ひとりのおばあちゃんに大切なことを気づかせてもらったときのお話です。

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【100記事】開設してからのことを少しだけ振り返ってみる。

みずたまなおです。

こんにちは。

 

今回は、これまでの記事の振り返りと管理人についてのお話です。

どうぞ最後までお付き合いくださいませ。

 

【目 次】

 

管理人からのご挨拶

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読者さまに支えられ、当ブログもこの投稿で100記事目という節目を迎えることができました。

いつもご覧いただき、本当にありがとうございます!

 

以前の記事でも同じようなことを書いていますが、私は過去に何度かブログを開設したことがあります。

しかし、いずれも1ヶ月も続きませんでした。

今回、こうして100もの記事を書いてこられたことに、自分でもただただ驚き、同時に信じられない気持ちです。

それもこれも、読んでくださる方がいるからこそ継続できたことであり、読者さまの存在がなければ高い頻度でブログの更新をすることはできなかったことでしょう。

はてなスターやブックマークをつけてくださるみなさま、足あとは残らないけれどいつも読んでくださるみなさまあっての当ブログです。

改めて、心より感謝申し上げます。

 

このブログは、「たったひとりでもいいから、誰かに深く印象に残る記事を書きたい」という思いで運営をしてきました。

開設当初はアクセスもほとんどなく、「誰にも伝わるはずがない」という諦めの気持ちがありました。

開設したばかりなので、それは仕方のないことなのですが。

 

しかし、運営を継続し記事を書き続けることで、次第に「もしかしたら伝わっているのかもしれない」「きっと伝わる!」と気持ちが変化していきました。

それは、記事を書き続けることで、記事の構成や文章を書く能力が多少身に付いたのだとは思いますが、やはり一番の要因は、読者さまの反応があったからです。

ときにコメントを残してくださる方も居て、そのたびに自信に変わり、「ブログをやっていてよかった」という思いになったのです。

 

ブログを開設して3ヶ月あまり、他の方のブログを読ませていただいたり、記事を書いたり、日々何かしらの気づきを得ることは、私にとってとても有意義な時間で、とても濃い毎日を過ごすことができています。

今やブログを書くことは、私にとって大切なライフワークのひとつとなりました。

 

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 開設から3ヶ月が経ったときの振り返りや気づきを書いています。

www.nao-mizutama.com

 

管理人あれこれ

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最近新たに読者になってくださった方に、改めて自己紹介をしようと思います。

これまで、あまり素性を明かしてきませんでしたが、どんな人が記事を書いているのかをつまびらかに書いていきますので、しばしの間お付き合いくださいませ。

 

【ブログ】

01:ハンドルネームの由来は?

→みずたま なお(nao-mizutama)

 由来…ないです。

 本名も全然違います。

 

02:ブログタイトルの由来は?

→病名とハンドルネームで「双極性nao」

 他にないものをと思い「てにをは」とつけました。

 

03:ブログを始めた動機は?

→SNSのフォロワーさんが始めたから、という短絡的な動機です。

 

【概要】

04:年齢は?

→30になってしまいました…。

 最近やたら胃がもたれます。

 

05:出身地はどこ?

→岡山県です。

 モモとマスカットが有名です。

 ブルゾンちえみも有名です。

 

06:星座は?

→双子座です。

 

07:血液型は?

→O型。よくA型に間違えられます。

 

【性格】

08:自分の性格は?

→結構のんびりしています。

 仕事中はちゃきちゃき動きます。

 

09:周りからはどんな人ってよく言われる?

→声がすてきと言われます。

 

10:自分の長所は?

→几帳面なところと嫌いな食べ物がないところです。

 

11:短所は?

→結構すぐに傷ついてしまうところです。

 ガラスのハートです…。

 

12:人見知りする?

→人並みに人見知りします。

 

13:自分を動物に例えると?

→白うさぎ。白限定です。

 

【恋愛】

14:初恋はいつ?

→小学6年生のときです。

 

15:今は恋してる?

→してないです。

 しばらく恋愛していないので、恋愛感情を忘れてしまいました…。

 

16:好きなタイプは?

→気持ちに余裕がある人。

 何でも食べる人です。

 

17:惚れやすい?

→たぶん違うと思います。

 たぶん…。

 

18:モテる?

→モテません!

 

19:告白する方?される方?

→どちらかと言えば、告白される方だと思います。

 どちらかと言えば…。

 

20:何フェチ?

→前歯が好きです。

 大きめの前歯がなぜか好きです。

 

【好きなもの】

21:好きな食べ物は?

→ホイップクリーム。

 毎食でもいけます。

 

22:好きな飲み物は?

→ブラックコーヒーです。

 お酒は飲めません。

 

23:好きな色は?

→濃いめの水色。

 みずたまの由来はここからきました。

 

24:好きな香りは?

→夏の夜の湿り気のある空気の香りです。

 季節の匂いは全体的に好きです。

 

25:好きな季節は?

→春です。

 5月が一年のなかで一番好きです。

 

26:好きな花は?

→藤の花。

 5月がちょうど見頃ですね。

 

【その他】

27:得意料理は?

→ロコモコ。

 泡盛を入れて炒めます。

 

28:家に帰って一番最初にすることは?

→手洗い・うがいです。

 これは必須です。

 

29:マイブームは何?

→やっぱりブログですかね。

 書くのも読むのも楽しいです。

 

30:とりあえず今の目標は?

→ブログでは、運営6ヶ月が目標です。

 読者登録者数200(2017年12月3日現在131人)

 それ以外では、一日動ける体力をつけて働けるようになること! 

 

以上、こんな感じです。

あ、どうでもいいことですが、視力がとても悪いです。

あと、47都道府県に行ったことがあります。

 

過去の記事を振り返って

 

苦しみのなかで書く記事

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ブログを開設したときからの記事を眺めていると、「よくこんなに書けたな」と実感がなく、どこか他人事のような感じがします。

記事を書くこと自体、しんどいとか辞めたいと思うことはありませんでしたが、過去の自分の経験を記事にするときは、苦しみに耐えながら言葉にならない感情を絞り出すように、知り得る限り語彙を駆使して文字に起こしていきました。

けれど、苦しみのなかで記事を書き終えると、何かがリセットされたかのように穏やかな気持ちになりました。

 

<関連記事>

 私が苦しみながら書いた記事たちです。

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「言葉」というジャンル

病気などの体験談以外にも、言葉に関する記事も書いてきました。

ブログ開設以前は、「言葉」というものに特別な思い入れはありませんでした。

「病気に関する記事だけでは、きっとすぐにネタ切れになってしまう」「他に何かよいジャンルはないだろうか」と考えるようになりました。

考えても考えても、書きたいものは思い浮かびませんでした。

 

あるとき、ブログのタイトルを改めて考えようと思ったとき、偶然つけていた「てにをは」というものに目が留まりました。

「てにをは」→「国語」→「言葉」というような流れで、言葉についての記事を書くことになりました。

偶然、ブログのタイトルに「てにをは」とつけてしまったことがきっかけとなったのです。

 

書きたい記事と読まれる記事

読者のみなさまが、一体どのような記事を求めているのか、ということは100記事を書いた今でも全くわかりません。

書き手がどんなに時間をかけて、内容の濃い記事を書いたとしても、それが読まれなければ意味がありません。

反対に、短時間で書いた記事の方がよく読まれることもあります。

そのたびに「あれ?おかしいなー」首をかしげているのです。

書き手と読み手との間には、それだけの溝があるのだと痛感しています。

 

<関連記事>

私の予想に反して、全然読まれなかった記事たちです。 

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文字数の多い記事

いつもご覧いただいている読者の方ならご存知かと思いますが、私のブログはどの記事も長文です。

読むにはそれなりの時間がかかってしまいます。

それでも、貴重な時間を割いてまで、当ブログに来て読んでくださっていることに心から感謝しています。

本当にありがとうございます。

 

文字数は、一応3000字くらいを目安にして記事を書いるつもりではありますが、毎度のように超えてしまいます。

「もっと簡潔に書いた方がいいのかな」と思う一方で、「書きたいことがありすぎて3000字では足りない」とも思っています。

そして、大体超えてしまいます。

この記事も例外ではありません。

(全部で4447字あります。多いですね。)

 

これまでに書いてきた記事のなかで、最も文字数のある記事はどんな記事なのか。

気になったので調べてみました。

多い順に1位から10位までご紹介します。

 

①学校というプレス工場~私たちはこうして社会に投げ出される~ 4052字 

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②障害者差別解消法を知っていますか?~障害者週間に思うこと~ 4047字 

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③リアルの組織、ネットのコミュニティ~SNSでの身の置き方~ 3982字 

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「したい」が「しなければ」に変わるとき。 3971字

生きている意味なんてない、だから生きる。 3886字

声に出して言われたくない日本語~言われると戦意喪失~ 3811字

「5S」の先にあるもの。〜目には見えない6つ目の「S」 3787字

「死にたい」は生きたいサイン~苦しむあなたと周りの方へ~ 3760字

自傷行為は無縁だと思っていた私が初めてリストカットした日 3756字

さあ「おはよう」と言ってみよう!~挨拶は会話の第一歩~ 3751字

 

全然3000字には収まっていませんが、どれも大事な記事なので目を瞑っていただければありがたいです。

まだご覧になっていない記事があれば、もしよろしければ読んでいただけると嬉しいです。

長いです…。

そして、この記事も長いです。

 

おわりに

これからは、読んだ後に、読者の方に何かが残るような記事が書けるように、しっかりとした内容の記事を書いていきます。

どうすれば読まれるのか、どうすれば伝えられるのか。

アウトプットだけでなくインプットもしながら、よりよい記事を書いていくことが目標です。

読者のみなさまが、貴重な時間を割いてまで読んでいただくのに相応しい記事を目指します。

 

100記事は、あくまでも通過点です。

200記事目を投稿するときも同じように、読者のみなさまに感謝の気持ちが伝えられるように研鑽を積んで参ります。

今後とも、当ブログと私みずたまなおをよろしくお願いいたします!

 

 

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障害者差別解消法を知っていますか?~障害者週間に思うこと~

みずたまなおです。

こんにちは。

 

今回は、障害者に対するイメージについてのお話です。

どうぞ最後までお付き合いくださいませ。

 

【目 次】

 

「障害者」という言葉

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あなたは「障害者」と聞いて、どのようなことを想像しますか?

街中で見かけることはあってもあまり身近に感じられない、という方も多いかもしれません。

 

「しょうがいしゃ」という言葉は、「障害者」と表記されることが一般的ではありますが、医療福祉やNPO、民間施設によっては「障がい者」や「障者」と「害」という字を使用していないところもあります。

これは、「障害者」が害を与える者という言葉が持つ意味を取り払おうとしているからです。

 

人によってはこの言葉を使うことに抵抗がある、という方もいると思います。

ただ、個人的には「障害者」という言葉が害を与える者という認識は全くありませんが、この記事内では便宜上、「障害者」という表記をします。

どうぞご了承くださいませ。

 

障害者という括り

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障害者は、手や足、目や耳などが不自由な身体障害と、統合失調症やパニック障害、うつ病、双極性障害といった精神障害アスペルガー症候群や発達障害などの知的障害の3つに大別されます。

 

「障害者」という言葉へのイメージ

冒頭でもお尋ねしましたが、「障害者」と聞いて、あなたはどのようなことをイメージしますか?

もしかしたら、手や足が不自由な身体障害の方を想像するかもしれません。

一方で、精神障害知的障害がすぐに思い浮かぶ、という方はあまり多くないのではないでしょうか。

ちなみに、私が真っ先にイメージするのは目の不自由な方や足が不自由な方です。

 

「精神障害」という言葉そのものが誤解を生みやすく、積極的に使われなくなっているということも関係しているのかもしれませんが、残念ながら「障害者」から連想しづらくなっているように感じます。

 

「精神障害」という言葉は、あまりよいものではなく、むしろマイナスかもしれません。

「精神科」と聞くと、どうしても薄暗い閉鎖病棟のイメージがあって、精神障害者に対する差別用語もまだまだ根強く残っています。

 

うつ病などの精神疾患の患者数が増えていくなかで、暗いイメージの「精神障害」という言葉よりも「心の病」という言葉が使われるようになりました。

国民意識調査(2007年)によると、「心の病」は自分が呼ばれるときに一番抵抗感が少ない言葉(90.7%)とされています。(精神障害 - Wikipedia)

 

また、精神科というと、どうしても閉鎖的で入りづらいというイメージを持ってしまいます。

そのため、明るく入りやすい印象を与える心療内科が増えているのです。

 

精神科と心療内科は混同されがちですが、厳密には違うようです。

簡単に言えば、精神科が「心の病」そのものを治療するのに対し、心療内科はさまざまなストレスが原因で身体に症状が現れる場合、その症状や病気の治療を行います。(医療法人社団 拓美会 玉越病院 精神科 心療内科)

 

身体障害と精神障害

身体障害と精神障害の決定的な違いは、ひと目でわかるかどうかです。

もちろん、身体障害でも耳の不自由な方(ろう者)はひと目ではわかりませんが、その他の身体障害は目には見えません。

 

一方で精神障害は目には見えず、日ごろ生活をしていても全くと言っていいほど外見ではわかりません。

これは、精神障害に対する誤解偏見がいまだ根強く残っているため、当事者があまりカムアウトしていない、ということも大いに関係しているものと考えられます。

そのため、当事者が「私は精神疾患を患っています」と言わなければわからないことが多いのです。

 

自助会などに参加すれば同病の方との交流ができますが、それ以外の場においては直接的な交流はほとんどありません。

私も、同病の方と今まで直接会ったという経験は一度もありません。

そのため、同病の方と繋がりを持とうと考えると、必然的に匿名で利用できるSNSというところに行き着くのかもしれません。

 

<関連記事> 

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障害者差別解消法と障害者週間

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障害者差別解消法という法律は、2013年成立、2016年4月1日に施行されました。

正式には、障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律です。(障害者施策|政策統括官(共生社会政策担当) - 内閣府)

また、障害者週間は、2004年の障害者基本法の改正に伴い、12月3日の国際障害者デーを起点とする1週間(~12月9日)を障害者週間とすることがこの法律に明記されました。(

障害者週間 - Wikipedia)

 

障害者差別解消法とは

内閣府によると、この法律は次のようになっています。(障害者差別解消法リーフレット - 内閣府)

障害者差別解消法は、全ての国民が障害の有無によって分け隔てられることなく、相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会の実現に向け、障害を理由とする差別の解消を推進することを目的とする。

この法律は2016年に施行されていますが、残念ながら広く知られているとは言えません。

 

2017年11月に開かれた参議院代表質疑で、これに関する質問がありました。

内閣府の調査によると、施行後1年が経った2017年4月の時点で、「全く知らない」と答えた割合は60%を超えており、反対に「よく知っている」との回答は10%に止まっています。

 

先に挙げたリーフレットには、「不当な差別的扱いの禁止」「合理的配慮」という言葉が前面に押し出されています。

この「合理的配慮」は、職場や公的機関などにおいて、障害のある人から何らかの対応を求められたときに、負担が重すぎない範囲で対応するよう努めることです。

例えば、聴覚障害のある方に対し筆談をする、電車の乗り降りの際に車いすを押す、といったことが考えられます。

 

障害者週間

2004年以降、毎年12月3日から9日までの1週間を障害者週間とされています。

内閣府によると、国民の間に広く基本原則に関する関心と理解を深めるとともに、障害者が社会・経済・文化・その他のあらゆる分野の活動への参加を推進することを目的としています。(障害者週間の趣旨 - 内閣府)

 

「障害者」に思うこと

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 私は双極性障害を患っていて、「精神障害」という括りで考えられるのかもしれませんが、あまり「私は精神障害者だ」という実感はありません。

見た目からは全くわからないと思うし、仮に街中ですれ違っても、誰も何も感じないのだと思います。

 

それがよいと感じることがほとんどですが、ときに「そうでない方がよい」と感じることもあります。

それは、家族や職場などに症状を伝えるとき、また私自身がやり場のない不安を感じたときです。

「目に見える状態ならわかりやすいのに」「いつになったらよくなるのかな」という感情を抱きます。

目に見えない分、自分が今どのような状態なのかが全くわからず、雲を掴んでいるような不安があるのです。

 

先ほどもお話しましたが、「障害者」という言葉を聞いて、私は目の不自由な方や足が不自由な方が思い浮かびました。

それは、私が双極性障害と診断を受ける前から持つ「障害者」のイメージであり、幼いころからの体験や環境によって形成されたものだと感じます。

そこには「精神障害」という概念は全くありませんでした。

 

身体障害には私たちが考えている以上のつらさや苦しみ、もどかしさや苛立ちがあると思います。

しかし、当事者ではない私にとって察することしかできません。

そして、身体障害は目に見える障害のため、私たちがイメージしやすいのかもしれません。

 

一方で精神障害は、目に見えるものではありません。

そのため、障害者のイメージからは外れてしまっているのかもしれません。

精神障害には、身体障害とはまた違うつらさや苦しみ、もどかしさや苛立ちがあるような気がします。

 

私には、精神障害者という自覚は全くありません。

しかし、疾患名で括られると双極性障害はそれにあたります。

身体的な症状がないため「あなたは精神障害者ですよ」と言われても、全然ピンと来ません。

目に見えないことは、よくも悪くもあるのです。

 

恥ずかしながら、私は障害者差別解消法という法律があることを初めて知りました。

とてもよい法律だと感じる一方で、このような法律をつくらなければならないことを考えると、少し残念な気持ちもあります。

そして、諸外国と比べると、福祉においてはまだまだ後進国だということをこの法律が証明しているように感じます。

 

内閣府が作成しているリーフレットは何ページもあるものの、身体障害に関することが主で、精神障害に関することはわずかしかありません。(障害者差別解消法リーフレット - 内閣府)

わかりやすく敢えてそうしているのかもしれませんが、うつ病などの精神疾患の患者数が増加していることを考えると、もう少しページを割いてもよかったような気もします。

 

身体障害と精神障害のどちらがどう、ということはありません。

いずれにしても、誤解や偏見、差別がなくなることを切に願います。

障害者週間をきっかけに、あなたも障害者について、少し考えてみませんか?

 

 

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<お知らせ>

当ブログも、記事の数が100に近づいてきました。

100記事の節目として、改めて自己紹介をしようかと考えています。

管理人に対して、あまり興味がないかもしれませんが、万一何かご質問があればお答えしようと思っています。

ほんの少しだけ素性を明かします。

ご質問はブックマーク、もしくはサイト内「お問い合わせ」(スマホはページ最下部、パソコンはサイドバー下部)にて受付中です。

期待はしていませんが、どうぞよろしくお願いいたします。

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