みずたまなおです。
こんにちは。
今回は、いい加減についてのお話です。
どうぞ最後までお付き合いくださいませ。
【目 次】
「便利さ」の副作用
あなたは日常生活に満足していますか?
日頃の生活に疲れていませんか?
中には、慌ただしく過ごす毎日にうんざりしている、という方もいるかもしれません。
目まぐるしく移り行くこの時代、そのスピードについて行くのがやっと、という方もいるでしょう。
科学技術の進歩によって、私たちの生活が豊かになっていく一方、その分失われていくものもあります。
インターネットが普及したことで、いつでもどこでも必要な情報が手に入り、近年ではSNSで誰とでも交流できるようになりました。
わからないことがあれば指一本で、しかも数秒で解決でき、またSNSを介してかつての友人と何十年ぶりかに再開する、ということもできるのです。
しかし、便利になればなるほど私たちの生活の中から「大切な何か」が消えていっているような気がしてなりません。
情報がすぐに手に入る分、自分で考えたり本で調べたり、そこから得られる何か新しい発見や出会いの機会が減っています。
また、「SNS疲れ」という言葉にもあるように、24時間いつでも誰かと交流できる分、どこか監視されているような気がしたり「早く返信しなければ!」という義務感のようなものを感じたりするというような、精神的な安息感を得ることが難しくなっています。
情報をはじめ、あらゆる分野が猛スピードで便利になり豊かになる一方で、それだけ多くのものが失われているのです。
もしかすると、私たちはそれについて行くことだけでいっぱいいっぱいになっているのかもしれません。
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生活をいい加減に
「いい加減」という言葉に、あなたはどんな印象を抱きますか?
イコール「テキトー」なのではないでしょうか?
これは同時に、少なからずマイナスの要素が含まれているのではないでしょうか?
今回、私がお話するのは、どこにもアクセントを置かない「いー加減」ではなく、前にアクセントを置く「いい加減」です。
「テキトー」ではなく、「適当」、言い方を換えれば「ちょうどよい」という意味です。
いい加減に生活することは、あれもこれも投げやりになったりふざけたりするのではなく、ちょうどよい頃合い、例えれば「八分目」ということです。
「腹八分目」という言葉のそれと全く同じ意味です。
「八分目」ということは、80%です。
逆にいえば、20%の余力を残すということです。
「いい加減」は人によって変わってくるので、ここではあえて80%にしています。
常に100%のエネルギーで生活するのではなく、20%くらいは肩の力を抜いてみませんか?、というのが私の提案です。
ポキッと折れる前と後
いつも全速力
新卒で入社した会社で、私はいつも全力投球で仕事に臨んでいました。
「いろんなことを吸収したい」「力をつけて早く昇進したい」という思いから、勤務時間中はもちろん、時間外も専門雑誌や自己啓発書を読んだり、小売業という仕事柄、競合店舗や自社の他店舗の売場を偵察しに行ったりしていました。
車で4時間もかけて自社他店舗に行ったこともありました。
「学んだことをどうすれば自分のものにできるか」「どうすれば目標を達成できるか」ということを常に考え、わからないことは積極的に上司に質問していました。
「1分1秒たりとも無駄にしてなるものか」、そんな思いでした。
いま振り返ってみて、我ながらとてもフットワークが軽く積極的だったと思います。
おそらくそれは若さゆえの体力と、向上心からくるハングリー精神があったからこそできたことでしょう。
当時の私にはできても、今の私には決してできないことです。
今、冷静になって思い返すと、常に全力投球だった私は100%ではなく120%だったのだと感じます。
メーターは完全に振り切れていました。
また、もともと私はあまり積極的ではなく、どちらかといえば消極的で、ちゃきちゃきしているというよりものんびりしているタイプでした。
でも、いざ仕事のことになると、頭が仕事モードに切り替わり、全くの別人になってしまっていたのです。
60%~70%投球
入社以来、常に120%で仕事をしていた私ですが、3年が経たないうちにポキッと折れてしまいました。
メーターが振り切れるくらいの力を注いでいたので尽きてしまうのは時間の問題だったのかもしれません。
また、「仕事モード」という全くの別人になっていたため、私の心に相当な負担がかかっていたのかもしれません。
メンタルに支障を来してしまったのです。
当初はうつ病、現在は双極性障害との診断を受けていますが、関連書籍などを読んでいると「完璧を求めてはいけない」「○%の力でものごとに取り組むのがいい」などの記述をたびたび見かけます。
私はその考えに強く共感し、同時に、仕事をしていた自分の姿が頭をよぎりました。
120%で仕事をしていた自分です。
以来、私は「何%の力で取り組むのが自分にとってちょうどいいのかな」と考えています。
頭では60%から70%くらいかな、とぼんやりと意識をしてはいますが、実際にはときどき無理をして、それを超えてしまうこともあります。
そして、エネルギーが枯渇して布団から起き上がれない、という状態になってしまうのです。
共感はしたものの、○%と言われても全然ピンとこない自分がいました。
あるとき、いつかどこかで聞いた「いい加減」という言葉を思い出しました。
テキトーではなく適当に、ちょうどよく。
「ちょっと物足りないかな」というくらい。
それからは、あまり無理をしないようになったような気がします。
「まだできる」「もっとできる」と、知らないうちに無理をしすぎてしまう私を「いい加減」という言葉が「まぁまぁ」となだめてくれているような感じがします。
無理をするとすぐにその反動で動けなくなってしまう私にとって、「いい加減」は60%から70%くらい。
そうすると、いきなり「60%から70%で動け」と言われるよりも、どこかすんなり身体に馴染むような気がします。
発音次第で景色は変わる
いろいろなものが進歩して、私たちの生活は豊かになりました。
情報もすぐに手に入り、誰とでも交流できる便利な世の中です。
でも、それが原因で負担になっていたり、疲れたり、トラブルになったりするのでは、「本当の意味で豊かで便利なのだろうか」と答えに詰まります。
技術の進歩はすばらしくとてもありがたいことで、私もその恩恵を受けていることは紛れもない事実です。
しかし、寝ても覚めても情報の山々に囲まれ、いつでも誰とでも繋がれることで、神経を疲弊させている人がいることも、また事実です。
私たちは、意図せずとも無理を強いられているのかもしれません。
朝早くから会社や学校へ行き、夜遅くに帰宅してもやることがたくさんある。
それは勉強だったり家事だったり、もちろん他のこともあるでしょう。
そして、空いた時間にネットを通じて、何らかの情報を得たり誰かと交流したりするのです。
眠っている時間を除いて、時間を問わず誰かと繋がれる、反対に誰かに繋がられるのです。
そのような生活で、果たして心のゆとりや安息感が得られるのでしょうか。
そもそも、私たちは毎日が忙しすぎる。
やらなければいけないこともたくさんあるし、やりたいこともある。
全てに100%の力を注ぐことはできません。
状況によっては100%、またはそれ以上の力が必要なときもあります。
仕事では決して手は抜けない、という方も多いでしょう。
そんなときは、せめてプライベートのときくらい、肩の力を抜いて「いい加減」に生活してみませんか?
一日に何時間かは、全ての情報を遮断して読書をしてみる。
スマホを持たず、ちょっとだけ散歩に行ってみる。
家事を少しだけ手抜きをしてみる。
「テキトー」ではなく「適当」に。
それは、「ちょうどよい」ということ。
つまりそれは、「ちょっと物足りない」というくらい。
「いー加減」ではなく「いい加減」に。
深呼吸をして、肩の力を抜いてみませんか?
すると、いままで見えなかったものが見えてくる。
気づかなかったことに気づく。
「いい加減」に過ごすことで、いつもの景色が変わって見える。
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